今回は複数作品からの引用もあるため、少し長いブログです。
1.フィンランドの女性活躍
先日、世界経済フォーラムにおいてジェンダーギャップ指数2021が発表され、日本は156か国中120位、G7では最下位という結果が出ました。特に、女性の政治参加の低さが目立つようです。一方、ムーミンの故郷、フィンランドは2位でした。今フィンランド首相は女性かつ世界最年少の首相であり、内閣も女性の方が人数が多いくらいです。
2.ムーミンにおける女性らしさ
ムーミンにおいては、女性らしさからの解放のテーマがよく見られます。上記したように、フィンランドは今でこそ女性の活躍場が確立していますが、ムーミンの作者トーべ・ヤンソンが若いころからそうであったわけではないようです。ムーミンの物語では、(少なくとも日本では)まだまだ現代でも通用する女性の苦闘の物語として読めるものも多いと思います。
以前書いたブログでは、小島という生活環境が激変したなかで、これまで果たしてきた母親らしさを保てず苦しむムーミンママについて書きました。
今回は、母親らしさというより女性らしさの葛藤という面が強いフィリフィヨンカについて考えてみたいと思います。フィリフィヨンカは『ムーミン谷の夏まつり』『ムーミン谷のなかまたち』『ムーミン谷の十一月』の3作品に登場します。
あ、そうそう、ムーミンを読むときに注意したいのは、ムーミンの登場人物には固有名が少ないという点です。キャラクター名は、種族名というニュアンスで使われています。主人公のムーミン一家でさえ、ムーミンパパ、ママと固有名が設定されていません。とくに、サブキャラにはその傾向は強く、スノーク、ヘムレン、ミムラ、ホムサ、などは、個人の名前と思っていると、複数作品を読むとわけわからなくなります。種族名のようなもの、と言いましたが、もう少し検討すると、その人物の特徴を表す普通名詞という感じでしょうか。物語に登場するホムサ族はみんな空想家で人見知りです。つまり、そういう生物学的な種族がいるというより、人間のなかで空想好きで人見知りなタイプのメタファーとして読んだ方がよさそうです。つまり、ホムサ-タイプという感じです。(ヘムレンさんは少し違うので定義が難しい。いずれ考察します。)
3.フィリフィヨンカ-タイプの苦しみ
さて、フィリフィヨンカも同様で、3作品のフィリフィヨンカは個体としては、別人ととらえたほうがよさそうです。しかし共通点、つまりフィリフィヨンカ-タイプというものがあります。3人とも、与えられた役目や義務にしばられるという点、そして世間体や他者の気もちに敏感すぎて自分らしさを押し殺しているという点が共通しているのです。自分でもおかしいとうすうすは感じていながらも、その義務や他者の気もちを過剰に気にしてしまうキャラクターとして登場します。
義務と世間体にとらわれる人は、他者の面倒をみたり世話をする役目、また環境を維持するような役目を与えられることが多いようです。責任感が強く、自分が他人からどう見られるかに敏感なので、きちんと役目をこなし、手を抜かないのも特徴です。
そして、多くの文化で歴史的に、それは女性が負わされてきた役目、義務であるようです。家事、育児、介護、対人援助職、ですね。役目や仕事だけでなく、やさしく他者に思いやりがあり、誠実で手抜きをしない、という内面的な美徳も義務的に課されてきたものでしょう。
これが生物としての性差(セクシュアリティ)に基づくものなのか、社会的な規定(ジェンダー)なのかは私には判断できませんが、どうもカウンセリングで多くの方に会ってきた経験上も、やはり女性の方がフィリフィヨンカ-タイプの悩みを持つ方が多いと思います。とはいえ、男性でも他者の目を気にしたり自分の気もちに反する義務に忠実だったりする方は、フィリフィヨンカに共感できるのではないでしょうか。
具体的にフィリフィヨンカを見ていきましょう。
初登場は『ムーミン谷の夏まつり』です。ここでは、夏祭りのお祝いの準備をして、親戚が来るのを悲しそうに待っています。その家に偶然やってきたムーミンとスノークのおじょうさんがわけを聞くと、毎年親戚に招待状を出しているのに、ちっとも来てくれないというのです。ほかの人を招くことを提案されても「だって、お祝いの日の晩さんには、親類の人をよぶのが義務ですものね。」と答えます。しかも、親戚が来てくれなくて悲しいというわけではなく、そもそも親戚のおじさんたちは、まるで楽しくない人たちなので、フィリフィヨンカもパーティが楽しいと思えないのだそうです。フィリフィヨンカは、来てくれない、来たとしても楽しくないパーティの準備を義務感だけでしているのです。
しかし、スノークのおじょうさんに、親類のおじさんおばさんも楽しくないと思っているのではないか、それなら私たちを招待してよ、と言われることで、フィリフィヨンカは驚きつつ自分の固定観念から、常識的な判断に至ります。
「わたちたちみんなが、たのしくないと思っているんだったら、あの人たちをよぶ必要は、ちっともないわけね。」
「わたしがだれかすきな人とお祝いをしても、だれの気持ちもきずつけないかしら。その人たちとは、親類じゃなくても?」
このセリフから、彼女がお祝いには親類を呼ぶべきという規定にしばられて自分の気もちを無視してきたこと、また、だれかの気持ちを傷つけることを過剰に気にしていることがわかります。でも自分の気もちは無視し大事にしないので、抑うつ的な悲しさにとらわれていたのです。
次に登場する『ムーミン谷の仲間たち』でも、似た状況に置かれています。
『仲間たち』では「この世のおわりにおびえるフィリフィヨンカ」というタイトルがついています。フィリフィヨンカは、じゅうたんを洗っていますが、なぜか災難がやってくる予感におびえます。しかしそれでも、午後にやってくるガフサ夫人とのお茶のための準備をします。ガフサ夫人と話しても楽しくないのですが、マナーとしてお迎えするのです。ここでも、フィリフィヨンカの世間体にとらわれている性格は変わらないのですが、『夏まつり』より深みが増しているのは、この世の終わり、破滅的なものの予感を感じ、それが無慈悲で自我を超えたもの、自然や運命、人生そのものの認識にいたり、実存的な悩みとなっている点です。しかしガフサ夫人は日常のこまごまとしたことにしか関心がなく、つい口をすべらせ実存的な問題を語ったフィリフィヨンカとの会話についていけません。居心地が悪くなり、表面的な挨拶をして帰ってしまいます。ガフサ夫人が浅いとも言えますが、しかし無慈悲な破滅や宿命といった難しい話はお茶会ですべきではないというマナー違反をフィリフィヨンカがしたとも言えますね。
その後、風が強くなってきたかと思うと、海から嵐がやってきます。大たつまきもやってきて、フィリフィヨンカの家はめちゃめちゃ、家の家具や雑貨もすべて吹き飛んでしまいました。フィリフィヨンカは大たつまきを見て「ああ、なんてうつくしい、ふしぎな、この世のおわりでしょう!」「大自然の大きな力にたいしては、かわいそうに、小さなフィリフィヨンカに、いったいなにができるでしょう。」と思います。
そしてすべて吹き飛んだあと、「もうわたし、二どとびくびくしなくてもいいんだわ。いまこそ、自由になったのよ。これからは、どんなことだってできるんだわ。」とつぶやきます。無慈悲な大自然の前には無力、と怖れていた通りになったのに、むしろ自由と力を感じています。そして、あなたの言った通り災難がきたと言うガフサ夫人に、フィリフィヨンカは逆に選択で色落ちしない方法について語ります。実存的な悩みから解放され、自由と自信を得た彼女は、日常生活のささいな話題にも充実感を感じるようになったのです。
『ムーミン谷の十一月』では、長編全編にわたって登場し、ほぼ主役です。ここでは冒頭で命の危機にあいます。掃除中に屋根から落ちそうになって、大変な恐怖を味わうのです。何とか室内にもどろうとする彼女は、これまでの人生に後悔を感じます。「だいたい、わたしって、おそうじをしすぎるんだわ。あれこれ気をつかいすぎるんだわ。」とここでも気を使いすぎてきちんとしすぎている性格が語られます。「わたし、もう、フィリフィヨンカになっているのなんて、いやになっちゃったわ。なにかほかのものになろうっと。」とこれまでの自分を変えたいと感じ始めます。
何とか助かったあと、フィリフィヨンカは部屋がいつもと違って見えます。死を意識したとたん、人に会いに行く必要を感じ、相手としてムーミンママを選びます。やはり自分らしさに悩む人にはムーミンママのもつ癒しの力が必要なのでしょうか。
しかし、フィリフィヨンカは行動的な女性ではありません。虫ぼししてから行こうかと迷っているうちに時間がたってしまいます。ここでも、自分の気もちに忠実ではなく、義務やきまり、世間的な常識にとらわれてしまっているのです。しかも、掃除のときに命の危険にさらされたことで、手がブラシやぞうきんにさわっただけでもめまいがしておそろしさがこみあげてきて、目の前が真っ暗になるという状態になり、掃除ができなくなってしまいます。これは臨床的には「急性ストレス反応」というものですね。事件事故の直後にはこのような反応となることはよくありますし、一か月以上たっても回復しない場合はPTSDとなります。フィリフィヨンカは掃除にトラウマを抱えてしまうのです。しかし、虫が苦手なフィリフィヨンカは、虫ぼしや掃除をしないと、服が虫に食べれられる様を想像し、とても嫌な気持ちにもなります。掃除にはトラウマがありつつ、掃除しないと虫がうじゃうじゃというもう一つの嫌悪が出てしまうのです。
結局、やけになってムーミン谷に出かけます。(しかし、ここでも、気をつかってきちんとお土産を持っていきます。)しかし、ムーミン一家は前作『ムーミンパパ海へ行く』で、灯台のある小島に移住してしまっていて、留守でした。
そこで、フィリフヨンカと同じタイミングでムーミン一家に会いに来たヘムレンさんやホムサ、ミムラねえさん、スナフキン、スクルッタおじさんと協同生活を始めます。シェアハウス状態です。
ムーミン屋敷に入って最初にフィリフィヨンカが認識したのは、ずいぶん長い間部屋を掃除していないということでした。「おそうじをするのをやめちゃったってことよね。自分かってに…」と怒って言います。フィリフィヨンカにとって、掃除をしないことは、規範に反する、不道徳なことなのですね。
しかし、フィリフィヨンカは恐怖体験から今はお掃除ができません。外の落ち葉をはいているヘムレンさんにも古い葉っぱに触ると手が腐る、と神経質なことを言って、口論となります。そして口論は過熱しヘムレンさんは「命令は男がするんだ。男だ、男だ。」と今や炎上間違いなしのセリフを言います。フィリフィヨンカは「ムーミンママのいたころは、ちがっていましたようだ。」と言い返します。
その後にも共同生活の中で、晩ご飯のあと片付けをする人が決まらないので晩ご飯をたべることができないという状態に陥ります。ヘムレンは「うちの中のことは女の役目だ。」と言いますが、フィリフィヨンカは「また命令ね」と従いません。
とはいえ、空腹で一人になったフィリフィヨンカは、食事の支度をするのは自分だと感じていました。女性だから、という理由ではなく、食事の支度がそもそも好きなのです。片付けも嫌いではないのです。でもそれは「人からいわれてするのでさえなければね。」と涙が出ます。命令されたことで、本当は楽しく得意なはずの食事の支度や片付けを素直にできなくなってしまったのです。「おそうじもできない、お料理もできないでは、生きていたってしょうがないじゃないの。ほかには、するねうちのあるものなんて、なにもないもの。」フィリフィヨンカにとっては、きちんとやらなくてはいけない義務的なもの、しかも得意であるものが家事なのです。しかし、トラウマやヘムレンさんへの意地で、それが素直にできなくなってしまった。女性だから好きなのではなく、個性として好きなはずの家事が、きちんとやろうとしすぎて事故にあい、女性だからやれと押し付けられたことに反発し、できなくなってしまって、にっちもさっちもいかなくなってしまったのです。これは勉強しろと言われたらかえってできなくなる子どもと似ているような…。思い当たる心理ですよね。
苦しむフィリフィヨンカですが、スナフキンとのやりとりを通じ、台所が安心できる場所であると思い出します。台所は自分の天下であると感じ、料理に取りかかります。そして、台所と料理の支度においては、自分がリーダーとして仕切ることができるのです。これは得意なこと、好きなことでみんなに貢献しているのであって、女性の役割を押し付けられて行っているわけではないのですね。
少し動けるようになったフィリフィヨンカは、子どもであるホムサにやさしくしようとします。「ムーミンママだってこうしたはずなのよ。」と言いますが、ホムサには実はありがた迷惑でした。ホムサは気が弱いので、断れないだけなのですが、フィリフィヨンカは気づきません。ママのようにふるまう自分に酔っているだけですからね。外で食事をすることを提案し実行しますが、みんなの気持ちはまとまりません。言い争いとなってしまい、フィリフィヨンカは「せっかくおもてで食事したのも。だいなしだわ。」と言いますが、ミムラねえさんは「食卓を外にうつしたくらいではね、ムーミンママにはなれないんですからね。」とすばっと指摘します。フィリフィヨンカは「あっちでもムーミンママ、こっちでもムーミンママ、そんなにムーミンママがえらいんですかね!」と、これまであこがれていたムーミンママへの嫉妬と敵意を爆発させます。自分はちゃんとしているのに、掃除もちゃんとしないだらしないムーミンママがみんなから慕われるなんて!ということですね。これはムーミンママが、フィリフィヨンカの影(シャドウ)になったということです。シャドウは自分の価値観とは合わないもので、怒り軽蔑に値しますが、一方で自分に足りないもの、学ぶべきものであり、取り入れるべきものでもあります。自分の価値観に合わないものを再考するには、そのシャドウが他者からは評価されたり愛されたりしている様を味あわなくてはなりません。それは苦しいことですが、こころの成長には必要なものでもあります。
さて、ムーミン屋敷にやってきたみんなは、パーティを開くことになります。フィリフィヨンカは宿敵のヘムレンさんから、芸術家として評価されていたことを知ります。心臓がどきどきして、「わたしが芸術家ですって。ヘムレンさんが。わたしは芸術家だっていったんですって。なんて、しびれちゃうことばでしょう。」そして台所をかざりつけ、出し物として影絵を行います。頑固者のスクルッタおじさんさえ、ほめる出来栄えでした。
その後、フィリフィヨンカはぐっすり眠り、目が覚めると掃除をする気持ちになります。ヘムレンさんは「きれいにおそうじをしてくれて、ありがとう。」とこころから感謝します。フィリフィヨンカは「お礼なんてとんでもない。」「わたし、しないではいられなかったんですもの。あなただってしたくてたまらないことをすればいいんだわ。」と答えます。そして、みんなのことを思いやりながら、自分の家に帰っていきました。
4.“らしさ”からの本当の自由とは
3作品に共通して、フィリフィヨンカは、いつの間にか与えられ刷り込まれた役割や常識、世間体などと、自分の本音との間で苦しんでいます。『十一月』では、命の危機を経験をきっかけに、その与えられたものによる世界が壊れていきます。表面的に安定していた世界や意識レベルで正しいとされていたことが崩れるときには、人は精神的な危機を迎え、精神疾患のようにもなります。その過程で苦しみながら、フィリフィヨンカは自分らしさをはっきりと認識していきます。
ここで興味深いのは、フィリフィヨンカフィリフィヨンカは、女性の役割を押し付けられることに抵抗しますが、それらが好きで得意という自分にも気づいていきます。『仲間たち』で、危機を経験したフィリフィヨンカが日常会話に戻っていくように、以前の自分やそれまでの常識を全否定しているわけではないのです。逆に、家事が好きなのに、トラウマや反抗心でできないというほうが不自由でつらい状態でした。義務や規範、役割を“意図的”に拒否しているうちは、本当の自由ではないのです。でも、以前のように、黙ってわきまえて役割や規範に従う自分でもいられない。このように、どうしたらよいかわからない、何もできないという苦しみを通じ、スナフキンやホムサ、ヘムレンさんたちとの傷つくやりとりを通じ、フィリフィヨンカは自分の本当の姿を知っていきます。
今やフィリフィヨンカは、義務だからやる、世間体が大事だからやる、のではなく、自分がしたくてたまらないからやる、のです。たとえそれが伝統的な女性的な役割だとしても、主体的に自分がやりたいからやる、というのであれば、無理に拒否することよりも本当の意味で自由になるのですね。その過程には、命の危機によるきっかけと、これまで黙って従ってきた価値観への反抗、具体的な他人との対決、シャドウを受け入れること、他者からの評価、自分らしさの再発見、が必要だったのでしょう。
女性らしさ、いや、すべての〇〇らしさからの本当の解放という点から、そして心理療法の過程という点からも、フィリフィヨンカの自己実現の過程は本当にこころ打たれる物語でした。
ところで、ヘムレンさんは『十一月』において、男らしさから解放されていきます。こちらは次の機会に論じてみたいと思います。
文献
トーべ・ヤンソン 下村隆一(訳) ムーミン谷の夏まつり 講談社
トーベ・ヤンソン 山室静(訳) ムーミン谷の仲間たち 講談社
トーベ・ヤンソン 鈴木徹郎(訳) ムーミン谷の十一月 講談社