· 

さとりの化け物とマインドフルネス

 みなさんは“さとり”という妖怪(化け物)をご存じですか?私は子どものころ昔話の本で読んだのですが、とても怖いような、いや、怖いともいえないような、不気味な不思議な感覚になるお話でした。

 

 いくつかパターンがあるようですが多くの場合、山奥で一夜を明かしているきこりのもとに、“さとり”がやってきます。猿のような、けむくじゃらで人に近い姿です。きこりが「おかしなやつがやってきたな。」とこころで思うとそいつは「おやしなやつがやってきたな、と思ったな。」と言います。「おや、こいつはこころを読むぞ。」と思うと「おや、こいつはこころを読むぞ、と思ったな。」と、続けます。「こいつはうわさに聞く“さとり”だな。」「こいつはうわさに聞く“さとり”だな、と思ったな。」などと、きこりが何を思っても、「~と思ったな。」とこころを読まれてしまうのです。きこりは恐ろしくなります。その恐怖心も読まれてしまいます。「気持ち悪いな、なんとか追い払いたい。」「気持ち悪いな、なんとか追い払いたい、と思ったな。」ときこりがなにか対処しようとする気持ちも読まれてしまうので、攻撃することも逃げることもできないのです。なにかしようとする前にしようとすることを言い当てられてしまうのですからね。そうしているうち、きこりは思うことがなくなってしまいます。沈黙が辺りを包みます。すると、たき火にくべてあった栃(とち)の実がパチンっとはねて、“さとり”の顔に当たります。(別バージョンでは、組み立てていた桶のタガがはずれて“さとり”の顔を桶の板がたたきます。)すると、“さとり”は、「うわあ、人間というのは、自分で思ってもいないことをするのか!怖ろしい!」と逃げてしまいます。

 

 エンディングは少しユーモラスですが、小さいころからこの「さとりの化け物」の話にはなんとも不気味さを感じていました。すると、大人になってからSF作家、小松左京が『さとるの化け物』という短編の恐怖小説を書いているのを読みました。博識の小松左京らしく、登場人物に“さとる”の心理学的な分析もさせていて興味深いのですが、私がその小説で、一番おや?とひっかかったのは“さとる”の話は「よその国にあまり例のない話」というセリフでした。

 ユングは、交流のない文化でもよく似た神話や昔話があることから、元型という概念を思いつきます。文化や時代、個人差にかかわらず、人間はある共通のイメージを作る力があるということです。精神疾患や心理的な問題の背景にその元型が作用しているため、悩みや精神疾患のイメージが神話や昔話に類似するパターンをとることがあるというのです。

 しかし小松によると“さとり”の化け物には、我が国以外にはあまり例がないと言います。この説が根拠があるのか、私も調べたのですが、ネットで検索した限りでは、研究書もネット上の情報も見つかりませんでした。つまり、小松の言うように“さとり”のお話が他の国にないという根拠も、他の国に“さとり”のようなお話も、見つからないのです。

 

 もし小松の説が正しいなら、“さとり”の昔話は、日本人特有の恐怖や不安、悩みや心理的問題を表しているのかもしれないと思いました。

 ここで、日本人特有の心理的問題というと思いつくのが、赤面恐怖です。これは人前で赤くなることを過度に怖れて、人前に立てなくなって学校や仕事、はては外出もできなくなる精神障害です。対人不安とか対人恐怖のひとつです。この赤面恐怖や対人恐怖は、日本人に極端に多いとされてきました。この精神障害の背後にある恐怖や不安には、やはり恥の感覚があるのでしょう。そして、恥は、他人からどう思われるか、もっと言うと、他人がこう思っているのではないか、という不安や心配があるのです。そう、ここで“さとり”とつながってきました。

 

 実際には、赤面恐怖という症状は数十年前くらいから、かなり減っていて今はほとんどない疾患になりつつあります。最新のアメリカの診断基準ではそのような症状は「社交恐怖」に分類されます。しかし、顔が赤くなる恐怖という典型的な症状はなくなっても、不登校児のカウンセリングをすると、クラスメートがどう思っているか気になる、内緒話をしているのを見ると自分のことを話していると思う、気を使って演技するのに疲れた、という対人不安や恐怖がとても多いのです。つまり、クラスメートにどう思われるか、他者が自分をどう思っているのか、を心配し怖れている方がとても多いのです。これは、“さとり”を怖れることと似ているのではないでしょうか。自分の本当の姿や、カッコ悪い、いやらしい本心を知られるのが怖いということでしょう。

 そして同時に自分が“さとり”になっているのです。相手が私を~と思っている、と読みとってつらいのですからね。(もちろん、当たっているわけではなく、空想や妄想的ではありますが。)クラスメートの視線を感じたとき「お前、私のことをキモイと思っているな。」という“さとり”になっているわけです。“さとり”に会うのも怖いし、“さとり”になってしまうのもつらいのです。

 

 さて、「~と思っているな。」と繰り返すのは、別の連想も浮かびます。マインドフルネスでは、瞑想中に浮かぶ考えや感情、感覚を、「自分は~と思っている。」「~と感じている」などと認識し、それ以上とらわれず意識を呼吸に戻します。自分を苦しめる感情も「それは感情にすぎない。」と新たなラベリングをして、自分がそういう感情をもっていることのみ認めていきます。アンガーコントロールでも、自分が怒っていると認識します。怒ってすぐ暴力などの行動につなげるのではなく、行動の前に「自分は怒っている、んで、どうする?」となると、瞬間的に暴力や暴言にならず対応の幅が広がるのです。これらはメタな視点に立つなどと言われます。メタとは上位あるいは外側からものを見ることで、自分の感情や考えにこころすべてを支配されないよう、かつ感情や考えを見ないふりして抑圧しないように、感情や評価をせずただ認識することが有効です。つまり、“さとり”の化け物を自分の中にいるもう一人の自分とすると、治療的になるのです。自分のネガティブで非機能的な感情や考えについて「自分は~と思っているな。」と繰り返していくと、その感情に彩られたパワーが落ちていきます。

 そして、仏教における悟りは、偶然鳴った音をきっかけにもたらされる例が多い。自分の感情や思考のパワーが弱まり、無になったときに音がなると、「今ここ」に意識が集中されるのでしょう。仏教だけでなく、心理療法においても、「今ここ」に意識を集中することは治療的です。トラウマや恥、怖れ、不安、心配は過去、未来に意識をめぐらせるときに生じます。それらを“さとり”に指摘され続け、何も考えられなくなったとき、熱せられた木の実がはねる(タガが外れて板がはねる)という偶然で、「今ここ」に集中できるとき、恐れも追い払われるのでしょう。

 つまり化け物とは、自己言及の迷宮による苦しみのことなのかもしれません。しかし、河合隼雄先生も言っていましたが、昔話には苦しみや困難だけでなく解決法も示されています。今ここへの集中と偶然を享受することが、自己言及の苦しみからの解放になるのでしょう。

 

(注)

 私が子どものころ読んだ昔話の本はもうなくなってしまったので、今回のブログを書くにあたって小松左京以外にさとりの化け物が載っている本を調べたら『日本昔話百選』という本がありました。こちらは福島県南会津郡で採取されたお話となっていましたが、さとりの化け物の話自体は全国にあるようですね。

 

 小松左京の解釈では、大自然のなかにいて、自分だけが意識をもっておしゃべりをしている、自分の意識だけが自己充足している大自然のなかで異質な余計なものとなって、生みの親である大自然から追放されている孤独と恐怖、そしてそこから、意識が悪循環する苦しみが始まる、としています。

『日本昔話百選』では、「しんしんと雪のつもる深山で、黙然とはたらく手職人のかわいた心が生み出したものであろう。」と解説されています。

 私は対人恐怖とマインドフルネスとつなげて考えましたが、“さとり”はいろいろと考察できる、本当に興味深い妖怪ですね。

 

 

文献

小松左京.さとるの化け物.『霧が晴れた時』.角川ホラー文庫

稲田浩二・稲田和子(編著).日本昔話百選. 三省堂