心理療法では、一般的に空想を重視します。空想は、学者によって、あるいは理論や論文、本、によって、想像、ファンタジー、イメージ…と言い方は異なり、(翻訳としてはイメージは想像、ファンタジーは空想でしょうか)これらは厳密には異なっていると主張する学者、心理療法家もいますが、人のこころに浮かぶ映像や音、文字、考え、概念などとしましょう。
<心理療法における空想の扱い>
精神分析では自由連想で出てくる性的なイメージを始め抑圧した空想、ユング派では夢や箱庭、能動的想像で生じてくる元型的イメージ、認知行動療法でも自動思考やスキーマはイメージとして生じます。絵画療法やプレイセラピーでも、イメージを表現してもらうことが治療となり、ロールシャッハテストやTATなどの心理テストも表出されたイメージから判断していきます。人間のこころは、感情も思考も過去も未来も希望も絶望も、ほとんど空想として表現されると言えるかもしれません。
私は主観的なファンタジーを扱うからこそ心理療法である、とさえ思っています。たとえば、不登校の児童生徒が、学校を地獄のように思っている場合、客観的にはそれほどひどくはなくても、彼ら/彼女らのこころの事実として「学校は地獄だ」という個人的ファンタジーを心理療法家は大切にします。
一方、こころを扱っていながら、空想を扱わない、軽視する心理療法もあります。たとえば、森田療法は主観的な感情イメージにとらわれず行動することを勧め(行動本位)、マインドフルネスでは瞑想や呼吸法中に浮かぶイメージは、ほうっておく、とらわれず流れるままにして呼吸に意識を集中する、ということを勧めます。「学校は地獄だ」というイメージに対し、それを感じつつ登校する「恐怖突入」やその思いが流れ去るのを観察するという方法をとります。(あ、念のため言いますが、いじめ・体罰等、本当に地獄がある場合は別ですよ。)
私はこの違いは決定的な差であると思うのですが、多くの心理療法家や研究者は割と疑問なく並列させていますね。決定的な差があると思っている私も、臨床現場では両方使っています。イメージを非常に重視するユング派と無視しようとするマインドフルネスは正反対なのでしょうが、双方ヨーガや禅など東洋の宗教を重視しているという類似点もあり、矛盾しているような一致しているような、私の頭が現在少々混乱しています。(今後、考察し整理していきます。)
<仏教におけるイメージの扱い>
さて、このイメージを重視・軽視をめぐる差は、仏教においてもあります。ユング派とマインドフルネスがともに仏教を重視したり参考にしたりしながら決定的な差を持つのも、仏教にこの差があることからなのかもしれません。
これは鎌田東二氏の『神道のスピリチュアリティ』という本に、空海と道元の対比としてうまくまとめられているので、引用してみましょう。
「その思想と身体論は、一八〇度ほども違う。道元がイメージにこだわらない、空無化の瞑想法としての坐禅を推奨したのに対し、空海は阿字観や月輪観などの図像的イメージを豊富に用いることを提唱したからである。瞑想とイメージないしヴィジュアリゼーション(視覚化・視像化)に対する二人の考えと実践は正反対なのだ。 同じ仏教僧ではあっても、この正反対なまでの対照性が興味深い。このように、イメージを消す坐法と、イメージをふんだんに活用する坐法のふたつがあるのだ。前者の禅の坐法は、道元が主張したように、釈迦本来の仏教の坐法に基づいている。それに対して、空海の提唱した密教の坐法と瞑想法は、ヨーガあるいはヒンズー教の坐法と瞑想法と共通する。(中略)空海はイメージを活用することによって自己を変身させようとする戦略をとった。それに対して、道元はイメージを消し去ることによって自己をリセットし、あるいは初期化し、自己本来の面目に至ろうとした。」
これらを深く検討するとすごい量のブログになりますので、とりあえず、心理療法と仏教でイメージやファンタジーを重視する方法とそれにとらわれない方法とがあるということでよいでしょう。はたして、主観的イメージは心理療法において重視すべきかとらわれず軽視したほうがよいのか?…。 今の時点で、答えは出ていません。前述したように、混乱と迷いがあります。
<ミイとホムサの空想の扱い>
ここでムーミンを出すことは意外に思われるでしょうが、ムーミンにおいて空想の問題が描かれたお話があるのです。『ムーミン谷の仲間たち』の「ぞっとする話」です。
空想好きの少年ホムサは、家の周りで遊んでいます。彼にとって家の周囲は戦場であり未開の地であり、自分は戦士であり探検家です。いっしょに遊んでいる小さい弟は現実的で、彼の空想にのってきてくれません。ホムサは「そのちょうしでいくと、おまえはたちまち、おとなになるな。パパやママみたいになって、さぞ世間の役にたつことだろう。そうなったら、おまえはただありきたりのことしか、見たりきいたりしないんだ。そうなったらもうおしまいなだな。」と言います。ホムサにとって、大人の現実的な世界はつまならいものであり、子どもっぽい空想こそが人生の潤い、いや、人生そのものなのかもしれません。
一緒に遊ぶのをやめてからは、弟は空想上でヘビに食べられてしまったことになります。自分の空想にのめりこみ、泣き出して母親に報告してしまいます。母親は驚きますが、父親は彼のくせを知っていて、それが“うそ”であると見破ります。そしてうそをつくのはよくないと認めるまで夕飯はぬきだと言います。ホムサは反発し、「親たちがどんなにおろかで、なにがたいせつなことだかきけんなことだか、すこしも理解する能力がないのを感じて、いやけがさした」と外へ出ていきます。「もちろん、ぼくは、うそなんかつきはしない。敵だって、どろへびだって、ゆうれい馬車だって、みんな、ほんとうなんだ。」やはり、大人の現実世界に対する反発があります。
空想遊びを続けるうち、ホムサはタンスの上にいるミイに出会います。ミイに、どろへびといきたきのこという怪物から危機一髪助かった、と自分の空想を披露するホムサ。するとミイは、タンスの上に乗って隠れているのは「いきたきのこがもう客間に来ているのよ。」と、空想にのってきてくれます。いっしょに空想を共有できて喜ぶかと思いきや、ホムサは驚き「そんなこと、うそだい。いきたきのこなんて、けさまではいなかったんだ。ぼくが発明したんだもん。」と怪物は自分の空想に過ぎないと、これまでと正反対の態度をとるのです。しかしミイは「あのねばねばするやつ」「あたいのおばあちゃんのからだには、いちめんにあいつがはえているのよ」「はやくそのじゅうたんをまるめて、ドアにおしつけなさいよ」などと、ホムサが考えたはずの“いきたきのこ”という怪物をさらにリアルに実在する恐怖として空想を進めていきます。ホムサは泣き声をあげ、ドアがひらくと、ぎゃっとさけんで長イスの下にもぐりこみます。結局ドアを開けたのはミイのおばあさんなのですが。
そこにホムサのお父さんが探しにきます。うちの子を見ませんでしたか?と。ミイはしれっと「その子なら、長いすの下にいるわよ。」と言い、一気に大人の現実世界に対応します。“いきたきのこ”ごっこをしていた素振りなんてまったくありません。
父親と帰るホムサは「あいつ、ぼくをペテンにかけたんだよ!まるっきりのうそをならべてさ!あんなうそをきかされると、むなくそがわるくなっちまう。」父親はなぐさめるように「まったくさ。うそというやつは、ときによると、まったくふゆかいなもんだからね。」
空想と現実を自由に行き来するトリックスター、ミイの登場により、ホムサの価値観が正反対になっています。空想好きのホムサですが、はるかに上手のミイの空想にお株を奪われ、むしろファンタジーを否定し、それまでばかにしていた現実的なものの見方を支持します。
私はこのエピソードを読んだとき、トーベ・ヤンソンという作家(画家)を、非常に信頼できると感じました。作家(画家)として、トーベ・ヤンソンはもちろん空想力を重視し信じ、価値あるものと感じていたはずです。しかし、一方でホムサを通じ空想におぼれることの危険性も描いている。自分のよって立つものを否定できる人はとても信用できると思います。それはときに自虐的にもなりますが、自分は正しい、自分はすげー、自分の考えは正義、という人物よりよほど好感がもてます。
心理療法においても同様なのではないかと思います。ユング的なやり方はイメージ、ファンタジーを重視しますが、つまらない現実適応した大人代表のホムサのお父さんの発言「うそというやつは、ときによると、まったくふゆかいなもんだからね。」を、つねに頭の片隅に感じていないといけないのでしょう。
宗教や芸術、エンタメもそうですね。スピリチュアリティはだいたいイメージ力と関係しているのですが、現実はつまらない、ファンタジーはすばらしい、という考えだけだと、「あんなうそをきかされると、むなくそがわるくなっちまう。」かもしれません。
それは人生においても同様でしょう。夢を追う人生というと、かっこいい、すばらしいと思われますが、「ときによると、まったくふゆかい」な思いを自分がしたり、周囲にさせたりしています。
では、現実的なことだけでいいのか?・・・そうではなく、自分が正しいと感じたり、自分が好きな
方向に対し、つねに疑問をもち、ときに自己否定するということが必要なのだと思います。さわやかな自虐というものも大事でしょう。それが人生に深みを与えると感じます。
PS
今回ご紹介したエピソードでもやはりミイのすごさが際立っていますねえ。ホムサがちゃちな空想にひたって大人をばかにする態度、それこそが底の浅いばかばかかしいことだったのでしょう。そこでからかいたくなった。しかしお父さんのように空想はダメだ、うそだ、と否定するのではなく、むしろ空想をさらに促進することでホムサに教訓を与えた。空想力にしてもミイのほうがよっぽど深いものを持っていたし、でも現実適応もできている。そんな複雑なミイにとっては、ガキの空想も大人の現実適応も、つまらない浅いものだったのでしょうね。だから両方からかうことができる。ミイは深いなあ。