フィンランドで史上最年少の女性首相が誕生したと話題になっていました。連立内閣の党首は全員女性、大臣も女性のほうが多いそう。そのサンナ・マリン首相はレインボーファミリー、レズビアンの家族で育ったとのことです。
このようにフィンランドは男女平等はおろか、性的少数者や家族のあり方も非常に自由で、個人の個性や自由、権利が認められた社会のようです。もちろんフィンランドにも社会問題や生きにくい面もあるのでしょうが、今回テーマのジェンダーについては日本より風通しのよい社会でしょう。
しかしフィンランドも昔から女性やレインボーファミリーのあり方が認められていたわけではありません。サンナ・マリン首相も苦労してきたそうですね。
ムーミンにおいても、1965年に書かれた『ムーミンパパ海へ行く』ではムーミンパパとママの家族内の役割における苦悩が描かれています。とくにムーミンパパは“父親らしさ”、“男らしさ”の価値観にとらわれ、非常に“うざい”思考と行動をとってしまいます。その男らしさはあまりに典型的というか古臭いというか…。
たとえば、冒頭でムーミンパパはすることがなくて落ち込んだ気持ちのまま昼寝をしています。そこへムーミンが山火事を消したと報告にきます。パパはそれが気に入らない。自分をたよらなかったことで、危機のときは自分がリーダーなのだという立ち位置をないがしろにされたと感じたのでしょう。ムーミンとママは、小さな火事だからパパを起こす必要がなかった、と説明しますが、ふてくされたパパは、コケの下の火事は消えたと思っても燃え広がるんだ、と知ったかぶりをして、こげあとを見張るといってききません。
また、前回ブログで取り上げたモランがやってきてみんな大騒ぎとなりますが、去ってしまうとママは落ち着いて、バリケードを作ったり寝ずの番をする必要はないと言います。パパは「あれがちっとも危険じゃないというんなら、おまえたちは、わしをたよりにすることはないわけだ。こいつはありがたいね。」と、やはりふてくされてしまいます。
(結果として火事もモランも、パパが大げさに考えているだけで、危機的状況はその後起こりません。)
また夏は夜遅くまで明るいフィンランドですから、夏のあいだはランプをつけません。秋になってはじめてランプをつけるのですが、それをママがつけてしまうと、パパは「うちによってはランプをつける時期を決めるのは、そこのうちの父親なんだが」とぐちっています。
ムーミン谷での生活では男としてのプライドを満たすことができないパパ。ママとしては不満のない生活ですが、愛するパパが抑うつ的となっている現状を変えることにします。
夫婦のアイデアで、住みなれたムーミン谷から小さな孤島に引っこしして生活をふりだしからはじめることとします。パパが家族を“養える”場所に。養えるというのは収入が増えるという意味ではないですよね。男らしくふるまうことでしか衣食住が手に入らない場所という意味で、パパ“だけ”が家族を“養える”場所ということです。要するにサバイバル生活なら、男のロマンを実現できる、男らしく活躍できるということですね。
移住先の孤島ではパパの“マッチョ”ぶりは全開です。ママがなにかしようとすると「そんなことはわしがしてやるよ」「そういうことをぜんぶするのが、わしの役なんだが」「わからないことがあったら、いつでもわしにきかにゃいかんよ」「安心して気を楽にして」などと言い、重いものをもたせたり、少しでも力のいる仕事はさせません。花をもっていればいいと言います。そして海や灯台について相変わらず知ったかぶりをして、自分は偉大な人間だ、的なことを、さらっと言ってのけます。
しかし、現実はロマンのようにはいきません。灯台の明かりをつけようとして失敗、網で魚をとろうとしてかかったのは海藻だけ。釣りはうまくいくので他のうまくいかない仕事はほっぽらかして毎日釣りばかり。それも食べられる量をこえていて、ママに食べきれないと言われ一気にやる気をなくします。ミイは勝手に一人暮らし、ムーミンも思春期をむかえやはり一人暮らしして秘密をもっている様子。道を作ろうとしても石が大きすぎてできない。ママは「この島ではあまりものごとをかえようとしてはいけないのかもしれませんわ。あるがままにしておくしかないわ」と言い、戸だなや階段の修理などいろいろとやることはあると言われますが、(つくるんなら、なにか大きい、しっかりしたものがつくりたい、ほんとうにそういうものがつくってみたいな…だけど、どうしたらいいかわからん…父親らしくするのは、まったくむずかしいことだなあ。)と苦悩します。
ここにパパの自己愛の強さと、自分のプライド、存在意義というのがどういうものに支えられているか、いや、どういうものにとらわれているかわかりますね。大きいしっかりしたものでなければ、自分で自分を認められない。男の意地はつらぬけない。プライドは満たされないのです。
ところで、パートナーのムーミンママはどう思っているのか。ママは最初はパパをたて、「あなたのおっしゃる通り」とか「あなたならできるわ」的なことを繰り返し言っていますが、後半でさすがにママもちょっと抑うつ的になっています。やることがなくなったママはたきぎを大量に拾ってきてのこぎりで切ります。ひたすらのこぎりをひくママを見て、パパはそれも自分で引き受けようとしますがママは怒って「これは私の仕事よ。私だって遊びたいわ。」と言います。仕事をすべてとられ、慣れない土地でやることがなくなって、パパの保護のもといわゆる女らしいことや主婦の仕事、そしてパパの気分を盛り上げる役ばかりやらされているんですから、優しくて安定しているママもさすがに抑うつ的にもなるし怒ります。
さて、サバイバルという体育会系で男らしいところを見せることができないパパは、今度は文科系、研究者としての自己を上昇させようとします。海や島、島にある謎の黒池について調べて本を書こうと言い出します。「桟橋や小道、魚つりなんていうものは、つまらん人間のすることで、ほんとうに偉大なことにかかわる人間のすることじゃないのだ。」などと、自分がそれまで一生懸命取り組んでいたことを急に馬鹿にします。これはすっぱいブドウの心理ですね。食べたいけどとれなかったブドウを、あんなブドウすっぱいにちがいないと相手の価値を下げて自分を正当化し言い訳することで自己愛を保とうとする。
相変わらずのパターンで、最初は熱心ですが、やはり素人の研究はほとんど進みません。最初に熱心でうまくいかないとすぐいやになる。修理も建築も魚つりも漁もそうでした。同じパターンを繰り替えすのはその人のコンプレックスが現れている証拠ですね。
ところで、ムーミンパパは海のなにを調べたいのでしょうか?…パパは海が規則にしたがって動くのか、かってに動くのか調べたいと言います。そして「海がほんとうにてまえがってなのか、それともよくいうことをきくのか、それが知りたいんだ。」と本音をぽろっと言います。ムーミンがおどろいて「だれのいうことをきくの。」と聞きます。パパは口ごもってしまいます。そう、パパは海の規則が知りたい、つまり海に言うことをきかせたい、海を支配したいのです。しかしそれが大それたわがままとも知っているので、ムーミンの素朴な質問に口ごもる。つまり、海を支配したいというのはパパの空想的万能感なのです。
そしてそれは家族に対しても。ママはうちにいて“女らしく”花をもってパパを頼りにする、子どもはパパを尊敬する、そんな支配が彼の空想する父親らしさなのです。
海を調べるうち、特に、黒池の水面が呼吸しているように上下すること、夜には島が変化していることの二つに謎を感じます。パパは強い感情が周囲に移ることがあり、海や島が自分たちの感情を受けて変化しているように感じます。暗闇の中では秘密の変化がおき、自分たちまでがそこにでかけていってごたごたにまきこまれると、それに拍車をかけることになる、と感じます。(ユングの言う神秘的合一でしょう。)
そして、海は生きている、と感じ始めます。その考えを「わけがわからん」と、合理的にはとらえきれません。海が規則に従わないという考えが起こってきますが、その考えを打ち消し、海の不思議をつきとめ解決してやろう、そうすれば海を好きになれて、自尊心をたもつこともできると考えます。海を好きになれないかぎり、島ではたのしくなれないと言います。
しかし海と島を観察し続けかかわりを持ち続けるうち、海には規則性はないという結論を認めます。「海はすきかってをしているとしか思われん。ゆうべは島ぜんたいをおびやかした。なぜだ。どうしたのか。海にはリズムもなければ理由もないんだ。もしなにかがあるとしても、それはわしの理解をこえるものだね。」「それじゃ海は生き物にちがいないな。海は考えることができる。したいほうだいのことをする」そして、黒池で呼吸をしているのも、ムーミンパパの建築や漁を成功させないのも、海がやっていることと気づきます。そしてはればれとした顔になって「じゃあ、わしは理解する必要がないぞ!海ってやつは、すこしたちがわるいよ。」そう悟ったあとのパパの態度はよゆうが出てきます。海が荒れても「へいきだぜ」「おちつけ、しんぱいすることじゃない。」「そんなに興奮する必要はないだろ」などと、家族の心配や興奮をなだめます。かつてはパパこそ興奮して大げさに危機を感じていたのに。それが自分の男のロマンをかきたて存在意義を感じられることだったのですね。でも、海を生き物と認め好きになったパパは、海の行為に対しよゆうが出てきた。そして危機対応という男のロマンが必要なくなってきます。
そして小さな島が海を怖れていると感じ、(すべては生きているんだ)とさらなる認識を得て、自分が島と海を調停して島を守ってやろうと決意します。この守ってやろうというのは、以前のようなパパの自己愛のためではないですね。相手を生き物と認め、自分がコントロールするものじゃない、好き勝手にやってもいいけど、小さい怖れているものは守りたいという、自然な感情となっています。
パパは頭の中で海と対話します。小さな島をおどかさず守ってなぐさめてやるよう訴え、自分たちもいくら海に苦しめられても建設を続けると宣言します。そして「わしがこんなことをいうのも、つまりは―おまえさんがすきだからさ。」と結びます。
すると、海は何も言いませんでしたが、大きな板が何枚も島に流れ着きます。海はごめんなさいを言い、みんなに島にいてほしいというメッセージだとパパは解釈します。
ムーミンパパは海とのあいだにわだかまりがなくなっていることを感じ、「ムーミンパパのしんぱいはすべてかききえてしまって、耳のはしからしっぽの先まで、生気があふれてきました。」そしてそう感じた瞬間、決してつかなかった灯台が、灯台守が帰ってきたことによりついに点灯します。
私はこの物語は、ムーミンパパの父親らしさ、男らしさからの解放と読みました。ムーミンの物語は、自分の信じる価値観にとらわれて自分で自分をしばり抑うつ的となり、そこからいかに解放されるかという展開が多い気がします。スナフキンも自由にとらわれてかえって自由になれずうつうつしていました。
価値観というのはその人らしさを表すと同時にときにそれを犯します。それが自分で学び獲得したものでなく、社会の常識や親からのものである場合なおさら。
しかしとくに注意が必要なのは、自分のコンプレックスを隠すために信じるようになった価値観の場合です。自分の劣っている面、認めたくない面、過去のトラウマ、などから作り上げ信じるようになった価値観は、それが崩れることを許しません。つまり硬直化し過激化しやすい。またその人の個性が反映されず、いかにもありがちな、絵に描いたような、わざとらしい、典型的な様相になります。しだいに現実から離れたものとなって無理のあるものになります。
ムーミンパパの父親らしさ、男らしさもそうでした。そんな作られた人工的な“らしさ”はその人にエネルギーを与えのびのびと生きる指針にはなりません。むしろ他人からの承認を必要とし、自分らしさから離れていきます。
男らしさが人工的で硬直し他人を必要とするものになると、他人を力で支配しようとします。ムーミンパパがそうでしたね。これはDVとか体罰、虐待する男の心理でしょう。自分が養ってやる、お前は何もしなくていい、花だけもっていろ、自分は偉大な人間だ尊敬しろ、というのは、もはやDVに近い。
ムーミンパパはそこから解放されます。海というどうしても理解できず言うことを聞かせられない相手とつながることにより、自分のもっている男らしさは、生き物相手には通用しないということを悟らざるを得なかった。そこで価値の転換が起きます。これは経験してみるとわかりますが、とても苦しい。自分の常識や個性を全否定してしまいますからね。再生するにはいったん死ななければならない。パパも、そのきっかけとして、海は自分の理解をこえる、と負け、あきらめを認めなければなりませんでした。私はスポーツでもなんでも、勝つということは大したことないといつも思っています。負けることあきらめることのほうがはるかに偉大であると思います。そこから新しい、より自分らしい存在への闘いが始まるからです。
相手を生き物として認めると、自分には理解できない考えを持つし行動もする。支配やコントロールもできない。当たり前です。生き物なんだから。逆に言うと、理解しコントロールしようとしていたときは、相手を生き物と認めていなかったということです。生き物に対し大変失礼な態度です。
理解できない、コントロールできない、でも好きなんだ、という海への思いを認識することがパパの本当の自分らしさへの道だったのです。それはママやムーミン、ミイという家族に対しても同様でしょう。
私は『ムーミンパパ海へ行く』という物語は、パパが常識や世間から与えられ自分の弱さを隠すために無理やりまとっていた男らしさからから解放されるまでの苦闘について書かれていると思っています。私たちにとっては、それは男らしさだけでないでしょう。ほかの価値観であっても自分がもっている価値観からいかに解放され本当の自分らしさを獲得していくかという苦闘の物語だと思います。最近、(演歌)歌手の氷川きよしさんが、男らしさのプレッシャーで葛藤していたことを打ち明けたというニュースがありました。今も社会的な“らしさ”の強要や自縄自縛に苦しんでいる人たちにムーミンパパの苦悩と解放の物語を伝えたいと思います。
そうそう、最後に、DVや体罰、虐待している奴らに言っておきます。お前らはちっとも男らしくない。ただヒステリックに感情を爆発させているに過ぎない。お前の大事にしている男らしさというのは、世間が作った空想的な男らしさで、それを無批判で受け入れているだけで情けない。本当の男なら、いや本当に強い人間になりたいなら、理性と知力、意志の力、自然や他者との交流、想像力を駆使して、自分の信じる価値観とも闘ってほしいと思います。
教育虐待も同様です。子どもは生き物です。つまり規則通りには動きません。そんな当然のことに腹を立ててはいけません。グレゴリー・ベイトソンが挙げている例ですが、子どもが嫌いなほうれん草を食べさせるために、ほうれん草を食べたらジュースをあげるとします。子どもは果たしてほうれん草を好きになるでしょうか?その可能性もあります。しかし、別の可能性もあります。それはジュースを嫌いになる、親を嫌いになる、という可能性です。ご褒美で勉強させるというのはこの3つのパターンのどれになるかは、子どもしだいですから。そこまで理解はできないし、コントロールはできませんね。
― 理解できないものを好きになりましょう。 ―